スタッフと技術力ビデオ(運針)

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2023(令和五年)


KIMONO E JAPAN CO.,LTD.
代表取締役社長
渡部衿子(WATANOBE ERIKO)
着物企業アドバイザー
着物着付け指導師
KIMONO MEMORIES 主宰
HCM日本商工会会員

2023年度代表挨拶
KIMONO E JAPAN Co.,LTD.の渡部衿子(WATANOBERIKO)
「100年後の子供たちに残したい着物文化」への祈り

現代はYouTubeによって「100年前の日本の動画や写真が
技術の進歩で
カラーで見ることが出来る時代である。
勿論
100年前の日本の風景は日本国民全員が24時間365日着物姿である。
男子は(西洋から伝わったであろう)洒落た帽子を被り
女の子は当時には珍しい(やはり西洋からの)可愛い色合いのリボンをしたり
見るからに手作りの綺麗な日本髪飾りをしたり
また学生は男女とも袴姿で可愛らしいですね
またこの時代は西洋の波が押し寄せてる時代でもあり思い想いの日本髪姿でもある。
よく見ると
豪華な着物姿はお金持ちだとすぐわかる装いであり
また
庶民にとっては特別の大事な時々であり、どの場面もどの着物姿も
自由闊達な風情ですよね
半襟や帯着の着流し姿であることも普通に見て取れます。
当時の日本人が輝いて視えるのは私だけでしょうか?

さて令和
天皇陛下のご即位における芦田愛菜さん着用の御振袖が
「きもの鈴の屋秘伝の誰も袖を通した事が無いと言われてる100年前のお振袖」だった事も
Google記事にて紹介されております。
この当時における数々の特殊技法や染め技術の高さが評価されていましたね。
さて様々な
この当時の写真から視える課題ですが
100年後の現在に引き継がれた着物の文化は何であるか?
と考えた事はありませんか?
また
表題の「100年後の子供たちに残したい着物文化」とは何か?
私たちは
先人の日本人が後世の日本人に残して欲しいと願っているのは何か?
(を)
今年は改めて考える時ではないでしょうか?
私は今の着物仕立てビジネスを通しながら
また私が有志で作る着物会を通しながら
日本人と一緒に考えてみる一年にしたいと思って居るところです。。

さてこの2023年迄観たKIMONOですが
日本人及び世界の人々に与えてるその人気と影響はとても大きいと思います。
KIMONO=綺麗~豪華~絢爛~だから着てみたい~着て歩いてみたい~その人気は
漫画と富士山と京都以上に世界的に人々に人気です。
近年はコロナによる観光客激減に置いても
観光客の
「着物を着て歩く」夢の実現である貸衣装店が観光地に絶えないのが
現状です。

外国人にとって
また日本の若者にとって日本観光名所で貸衣装店で着物を着せて貰う事は
普通に気軽に着れる便利さでありアニメ効果もあり
ファッションの普段感覚や観光用として
日本の四季や着物の面倒なしきたりの格式など関係なく
気軽に着られ着物は
iPhoneの被写体としてインスタに掲載し自慢出来る憧れとして愛されてるんだな~と
感じます。
これはこれで勿論良いのですが
しかし本来の着物とはファッションというより、
日本人の内面を基本とした「伝える」「受け継ぐ」事が出来る民族衣装である事を
半面忘れてはならないと思うのです。
それは
近年の着物がファンション性における本来の形状の多様化が進むことで
益々、
本来の「伝える」「受け継ぐ」着物が持つ本来の由来の役割と精神が消えつつあることに
私なりにとても強い危機感を持っています。。

さて
最初の危機感は
40年以上前(バブル期)にこの着物業界に身を置いた時です。
私は戦後に設立された着物の(㎝式)専門学校と鯨尺を使用する本来の職業和裁学校の
二つの学校を経験する道を意図的に選び苦学の中、着物について学べた事は
振り返ってみても大変役に立ち貴重な経験だったと思えます。
特に卒業後のバブル期を
銀座の着物会社に勤務出来た事。
また東京だけでなく日本全国の産地や卸商や呉服屋また仕立て屋等を数多く
訪問する事で多くの経験をする事が出来たことは
バブル期だからこそ出来た経験と贅沢であり
これが後のVietnam仕立ての基礎となったのです。。

思い出しますと
1970~80年代当時
着物業界年商3兆円以上と言われた昭和40年(大卒の就職先人気No1と言われた)時代を
経ての昭和50年代後半日本はバブル絶頂期を迎える事になります。
とにかく着物が高ければ高い程売れに売れた異常な時代でした。
しかしながら
その裏側で見え隠れしたのは
高価な着物を買い世の流れが推し進める物欲に走り
クレジットが世に出始めた時代であり
ローンを組みかえながら高額商品を買いあさる姿
そのローン地獄で壊れかけていく家族や
着物に対する業界の着物の産地の技術者への安く叩く扱いや考え方
(技術軽視の態度に)
若い私の心はやがて辟易し始めて行く。
新反(新しい高価な着物)が売れる度(古い家族の思い出が詰まった着物が)
ないがしろに扱われていく空間。
その度お客様の心が置いてけぼりにされていく光景がよく見たのでした。

そんな時代の中で度々着物相談やクレーム対応の為
営業さんとお客様宅に一緒に行く機会がありました。
【貴女に逢いたくてわざとクレームしたのよ】なんて言ってくれる方もおり
高額な着物を契約した後でお客様は古い着物を出して来て
想い出話を懐かしくされては、この着物はまた利用(着ること)できないか?とよく相談されたものです。
特に
お姑さんやお母様の御着物(普段着)の紬や銘仙、ウール、モスリン
または古い古いタンスから引っ張り出したまだ樟脳の匂いが残る着物など、
今蔵から出して来たと思われるほどかび臭いお着物もありましたね。
当時でも戦争乗り越えた100年前後の御着物もよく皆さん持ってました。
そんな
おばあちゃまの引きずりの着物を解いて(裾柄だけ生かした祝い着に仕立て直したり)
女の子は「3歳7歳の祝い着」などにも解いて筋ケシしたり染め直したり
よく仕立て直しました。
こんな風に現在迄も
なんと多くの御着物が私の手を通り(お世話)させて戴いたことか?

袖や裾が切れ膝が抜けた(生地が弱くなってる)部分がある着物を
今の時代貴女は大事に出来ますか?
多分簡単に捨てちゃう人が多いですね。
しかしちょっと前の日本人というのは
内なる民族(四季を愛でる精神性の高い民族)だと先人は言ってました。
きものは形見なのよ。
だからお父様お母様やお舅お姑さんのだけど、古いんだけど
この紬を着れる様に出来たら身に付けたいから直して欲しいと。

さてこの様な場合
寸法が100%合いません
まず奥様の寸法を図り、着物寸法割り出して上げて、次に(お姑さんの御着物)の寸法を図り
、どうしたら身に付けられるか方法を探り、
生地の状態視ながら、着物に仕立てるか?また普段着の道中着や羽織にはどうか?
子供の着物に直そうか?座布団にしようか?
着物に付いてた胴裏もひと色に染めては裏に使用してあげて!!と、あらゆる先人の残してくれた知恵を絞り
、 ご依頼された大切な「受け継いで」いきたい着物を仕上げて(高価な着物と一緒に)お届けした時は、(高価な着物より)お直し出来た着物たちを心から喜んでいる姿に感動てくれる。
この風景に
この(仕立ての仕事)を生涯の仕事にしようと改めて誓った若かりし当時を思い出します
嬉しいことに
後日には、着用出来た喜びを
お手紙やハガキや電話で頂いたり(現代はiPhone写真を頂きます)
こんな風なお客様の対応に、私も大変感動して(当時は共有できる仲間も少なく)
一人で喜んでいました。
しかし
当時の仕立て業界はというと「こんな古い物仕立て直ししたくない」と返品されたり、
(古い物より新反が縫いやすいし仕立て代も高いので)嫌がられたり
なぜか縁起が悪いと文句言われたり
バブルで高価な着物が飛ぶように売れてたので
丁寧に仕立ててくれる人を探すのが大変でした。
ですので
当時若かった私は良くよく落ち込みました。
どうして着物業界に携わる人たちは「こんな人ばかり?」なんだろうかと。
今思いますと、
もちろん中にはいい人も居たのですが、いじわるされたり馬鹿にされたりの方が
遥かに多かったんですね。バブルで舞い上がってる業界の日本人をよく見ました。
池田重子氏が後々執筆された「遅く咲くのは枯れぬ花」で
明治大正昭和の戦前のお着物が
「古着呼ばわりされたバブル当時の苦労話」が盛り込まれた本もありますが
別のいい意味でおすすめです。

こんな若いころの不信感の経験から
日本国内の着物仕立てに魅力を全く失い
とにかく迷い悩み目標を失っていたバブルOL後半時代でした
が(のちに)VietnamとVN人に出逢い指導する事を通し
この当時の経験や知識がまた何より
自己発想が出来た事が
ベトナムの教え子に教え頑張る結果となったのです。

当時の物欲主義の着物業界や混乱した仕立て業界には今は感謝しています。
そしてこの様な想いで関わったお着物たちが
今でも
全国津々浦々迄Vietnam着物仕立ての32年の歳月含め延々と半世紀近く行き渡ってきたのですから「初心貫徹」の夢は叶ったと思っています。
では
100年後の子供たちに残したい着物文化とは何か?
1980年代のバブル時代に失い現在すでに無くなってしまってる「きもの受け継ぐ心」
を復活させて未来に伝える事ではないでしょうか?
当時
いいも悪いも「帯と着物のワンセットで」数百万の時代ですもの(汗)
私の様に古いきものを優先して面倒見る人はほとんどなく、
営業マンにより数百万数千万円の着物を購入された多くのお客様がその裏では
、恥ずかしそうに、「古い着物だが家族の想いで詰まった着物、シミや汚れがついてる着物
とにかく、「何とかして着たい」とおっしゃった気持ち!!
この想いこそが
物(心)を大事にする事を着物を通して受け継いできた何百年もの
日本人の知恵であり日本人のDNAであり、親の愛情だったり
(現代版SDGS?や「もったいない?」って何?この言葉偽物ですよね)
元々日本の文化(特に江戸文化)はSDGS勿体ない文化なんですが。
SDGS(持続可能な開発目標)と言う意味ですが
ビジネスとして利用価値のあった日本語でとても残念です。
とにかく
きものとは
ご両親や家族の愛情表現が日本本来の着物の存在であり
大事なDNAであり
またそれが
日本人自身の生きる支えになったり…日本人の心の拠り所が着物だったのだと思うのです。
特に
子供に掛ける愛情は並々ならぬ想いだった事が
子供の着物を見ると分かります。
生地を求めお母さんやお祖母さんが縫い上げて用意するんです
昔は赤ちゃんが生存する確率は非常に少なく、だからこそ両親の願いや想いを着物に託し
愛情一杯に想いを注ぎ込んで縫い上げだのです。
「きものとはこういうもの」だとよくVN人教え子に伝え説いて(今も)いい聴かせています。

子供の着物がレンタルされる時代・・この意味を理解できてる日本人は
少数でしょう
これから何とか復活させたいですね。
それは
私自身が62年前、母が夜なべして3歳の祝い着に縫ってくれた
モスリン生地ですがこの着物を今も持っているからです
社会に出てからの言うもの
今の夢を叶える為には多くの困難が公私ともにありました。
その困難に出会うその度に
私自身の心の支えになり夢を諦めなかった拠り所になってくれたのです。
Vietnamに持って来ていたお陰でこの祝い着は東日本大震災に遭わずに
唯一手元に残った一枚です。
私自身の経験ですが
多くの人の経験談からも着物の役割が理解出来ました。。
日本人に生まれたのですから着物を通しこの着物の持つ力の神秘さ
経験をさせてあげたいのです。
両親の想いを知ることも生きるきっかけであり大事な大事ひとつだと
皆さんを見てきてそう思うのです。
ですので
私が他界する時は人生を共にしたこの祝い着である「おべべ」を一緒に持って行きます。
この「おべべ」とは江戸時代の幼児語で赤いものを「紅々(べにべに)」と呼んでおり
これがべべと云い、おをつけて「おべべ」という呼び名になったのです。

あのバブル期「バブってるのに」精神はどんどん荒廃していく中で
とにかく何が大切で何を21世紀残すべきか?ということを
銀座の街でよく考えたものです。、
それは
私が10歳で着物という職業で私は食べていくと決めてたからでもありました。
小学校当時
戦争に行った叔父叔母の事や
三島由紀夫さんの自決や学生運動や赤軍派やあさま山荘事件、ベトナム戦争など
(のちにまさかベトナムが生涯のパートナーになるなど夢にも思わず)
その私の生まれた意味や役割、想い、信念を小学生なのに考えるきっかけとなったのです。
というか何か信条だけは異常に持っていました。

皆さんは知らないのです。
日本の着物の仕立ては「世界に類を見ない特徴」があることを。
「この特徴こそ」が日本の生活文化であり先人の知恵であり
「100年後の子供たちに残したい着物文化」の中身なのです
そして
この特徴こそが次世代に残したい私のやりたい残すべき着物ビジネスなのです
(次世代に残すには)どうしてもビジネスとしての取り組みは必須なのです。
たたほど高いものはないのです。
そう思いませんか?
明朗会計こそが価値があるのです。
社会的役割のある産業と精神は残ると勝手に信じています。
昔も今もなんと不明瞭な会計の多い事か(汗)

あの当時
もうすぐバブルははじける!!
人形町界隈の間口一軒の家が次々と10階ビルになっていく1990年当時。
「もうすぐバブルはじけるのにビル建てちゃうんだ」と心から日本を心配していた
その3年後1993年過ぎた頃に予想通りバブル崩壊!

私は1992年/02/20付けで
10年近く勤務した新橋演舞場近くの大きなビルのOL時代に終止符。
退社後の5月に訪越
(当時1991/11月から開始のVietnam着物仕立てが暗礁に乗り上げ運転資金も
枯渇状態の立て直しに強引に頼み込まれ、
縁あって訪越した東洋のパリ(プチパリ)と言われたVietnamサイゴン(現HCM)でした。

このVietnamとの出会いの後の二年後
、 日本はバブル崩壊。円高も進み1995年3・31には一㌦80円を(一瞬でも)切り79円に突入し、
それから現在言われてる日本の「失われた30年」という
日本経済はデフレに苦しむことになるのです。
一方Vietnam着物仕立ては(日本で5年目に教える振袖と留袖の仕立て方を3か月で習得させ品質納期(直行便も無く週二日キャセイ航空が香港経由でHCMに乗り入れる時代に日本国内よりも早い納期と何より品質が東京仕込みですので)どんどん日本の着物の仕立てがあっという間に
ホーチミンに来るようになり1995年からはJAL国際線直行便も出来益々着物仕立てバブルが
着物業界含めて起きていくわけです。
という事で
Vietnam着物仕立ては紆余曲折を経て今年32年目を迎える事になり
当時も今も
着物業界にとっても日本にとっても
既に無くてはならない存在となりました。
なぜなら日本国内で売れてる8~9割以上着物たちの殆どが当社含む40社前後のHCM着物工場にて仕立てられてるからです。
コロナ騒動で2021/7月頃急に「明日から工場閉鎖」とVietnam政府から突然言われ(流石社会主義)と思ったのですが
当時当社の工場内には未仕立てオーダー着物が2000枚以上放置されたまま仕事閉鎖。
当社だけでなくVietnamHCMの着物工場は全て2か月停止状態。
日本国内は
HCMから着物の仕立てが仕上がらず・・ある意味Vietnam仕立ての知名度が上がったと言う人も
有った位でした。

2000年当時
着物仕立て業界の偉い先生が(国内仕立て預かりで当社Vietnamに出してる立場なのに)
「渡部さんがベトナムに安い労働力で着物指導したから日本人は着物を縫わないでコンビニで仕事しちゃうのよ」と言われたことがあります。
こんな立派な先生が
「国内仕立てを請け負い当社VNに仕事出してるお立場で
こんな浅はかな愚問な事を言うなんて、と・・本末転倒とはこういう事だと思いました。
なぜなら
安い労働力で働かせてるのは日本でありVNではなかったからです。
当社VNの方が日本人全体より技術が高くミスが無く品質が良く納期がしっかりしていて、
信用信頼が高かったから多くの仕事がVNに来てる訳です。
一点物の着物を飛行機に乗せて書類(B/Lや暫定八条という面倒な国際法に従い
輸出入して・・・とにかく完璧でした。

因みに日本の仕立て業界に
心底見切りをつけてVN人に最新の技術指導した私の返答ですが
「先生みたいな偉い先生達が」
「着物を縫う楽しさや意味意義を子供たちに教えず、また自立できなくなってる
徒弟制度そのままの指導方法でどうして着物の仕立てを守れる?とお考えだったのか?
今でも理解に苦しみます。
とにかく着物仕立てを
複雑に難しく日本人の子供達(20代前後)へ指導するからでしょ!」
だから皆さん
「着物を縫うよりコンビニで仕事する方が楽しいんですよ」
「私にとってもVietnamの子供たちが(先生と同じく)可愛い教え子なんですよ」
ですので
はっきりと言わせて頂きます「賃金が安いから仕事が来るのではありません。」
「実力です」と!!

日本人を安く使って縫わせてる和裁士会の先生たちに言われたくありません」と反論。
皆さん、これが着物仕立ての実態です。

コロナ明けのこれからが大事だからだからこそ、
真摯に前向きに
全面的にVietnam仕立てを堂々と日本人に掲げて
着物の仕立てをまっすぐな気持ちで、今まで通りVietnamで歩んできた
32年の着物仕立ての歴史の通り
ビジネスはビジネスとしての着物のプロとして継続しながら
一人の日本人として
「100年後の子供たちに残したい着物文化」をVietnam着物仕立てを通し
日本の皆さんと一緒に考えたいです。

「衿子先生、着物縫ったらご飯食べられるの?」と。
一日一食しか食べることが出来なかった1992年当時の子供たちに
銀座の一流の生地を縫えるように指導すると決めた「覚悟の時」が懐かしく、
人生で一番私が生き生きしてた時代でした!!
この子達だったら高価な振袖や留袖を難なく綺麗に縫える!絶対に裁断して綺麗に縫える
私のコピーを育てる!!と決め最初の三か月で振袖留袖を縫い上げたのです。
それには短期間の(血の出るような運針の修業が必須でした)
5年修業しても習得に難しい着物を縫う技術、
日本人でも辟易する運針や難作業をやる気にさせる為にはどうしたらよいか!「私だったらどうして貰ったらやる気になる?}と考え
この社会主義の国に
「基本給+歩合給」制度を作ってしまい、Vietnam政府に睨まれてしまい社会的に大きな問題にもなり
スタートは邁進してたので本当に色々ありました。
ホーチミンから移動するにも移動許可書が必要だった時代にです。
外国人が数人しかいなかったあの時代。、
VNから日本へのファックス一枚が5㌦(約500円)の時代
日本HCM領事館設立が1993年でしたので、当時何から何まで(も)日本の着物を
後世に引き渡すための
「私なりの」仕組みつくりの一環だったのです。
私の目的ははっきりしていましたが
しかしこの仕事は結局また大きな利益も生むこととなり
Vietnamにおける後発の日本人による
当社のVietnam人大量引き抜きや移動が当たり前の時代に突入の1995~2010頃の全盛期を迎えることになった訳です。
この当時の10数年というもの着物ワーカーの収入は引き抜き合戦による賃金の高騰で
家を建てたり子供を海外へ留学させたりとお金持ちになった人が
とても多くVietnamは仕立てバブルでしたが
日本はといいますと「着付バブル」で着付け学校が乱立した時代でしたね。
さて
現在私の人生も後半戦
コロナも終息に向かってはいるが経済は非常に不安定な現在。
「着物を着る人なんているの??」と着物に関心が無い人、「着物とはなに?」と着物の事を考えた事が無い人。
Googleで着物を検索しても義務的な論理(その論理も間違ってますが)が掲載されてるだけ!!
仕立て方も全国各地にある方言の様に様々で
また着付の理論も新しい考えや方法により業界は間違いだらけ、
例えば
腰ひも5~6本も使用し着付けを教えたり(本来どの着物も腰ひも一本で着るのが着物である)
着物を着せたり
「着物を着る事をひたすら難しくしてる」戦後の利益社会が現在もなお継続中である。
更に
肝心な着物の仕立ては「縫う事」も難しいですが、
着物の「生地を裁つこと」の難解さの日本着物業界の理解不足。
簡単だと言う方もいますが、
一反何十万も難百万もする着物を裁つのに裁ち鋏を持ち【貴女は】本当に間違いなく高価な生地を一日20反切ることが出来ますか?仕立て直しで身丈が取れない場合身頃4か所裁つ場合もあり
衽も含めると6ケ所をバシっと切り足し布して着られるようにきれいに仕立てる事が
現在の国内のプロと呼ばれる日本人だと一日何反裁てるのでしょうか?
日本人でも難しい困難な事をVNの人が実行し支えてくれてる事を
日本人のお客様に知って頂きたいですね。
Vietnam着物仕立ての成功のポイントは「裁ち」にあるのです。
また文字がローマ字文化だった事もかなり影響があります。

日本人として
着物に関わりながら着物の事をほんとは何も知らない、何もできない人が、
暗記出来た和裁の知識だけで文言をあれこれい言われる方と実行は別(言うは易し行うは難し」のことわざの通り着物業界は
思い想いの仕立てのクレームのなんと多い事か。
ですので
今後は直接着物を愛するお客様に関わって行きたいです。

何度も申しますが
100年後の子供たちにどんな着物文化を残してあげたいのか?
愛する子供たちの折々にご両親やご家族が着物姿で関わることこそが素敵なんですよね
増してお母さんが縫った着物だったらもっと素敵。
昔の日本人社会は子供にどれほどの愛情を着物を通し表現していたか?
子供の着物に日本全国各地の由来や
縫う事の約束事が多いのには古の良き日本人の季節に対する想いの文化が濃厚だらです。
これからの私たちは
着物を着る事や着物を縫う事を通し着物とは?を知っていく事こそが
家の歴史や家族の歴史を知るきっかけとなり
家紋の話や着物による家族を一緒に思い出す
そして後々に100年後にも思い出して頂きたい世界を引き継いで行く事なのです。

私は長年念じてやまなかった、
着物を「伝える」「受け継ぐ」の仕組みつくり。、
これが私の最後の仕事ですので
頑張ります。。

やりたいことがあって「伝えたいことが頭の中に一杯あって」「先人から受け継いで来たものは何か?また受け継いで頂きたい歴史は何か」を一緒に話しましょう
皆さん話しましょうね。
まず
着物を好きな人
HCMで集まろう。。
「100年後の子供たちに残したい着物文化」を一緒に考えましょう
まだまだ書き足りませんが
2023年度の抱負ですのでこの辺りで終わります。


代表取締役社長
渡部衿子
WATANOBE ERIKO
2023/02/吉日/Vietnamホーチミンにて