2017年度(遅ればせの)挨拶
今年のあいさつは何について書こうかと思案していたら
もうなんと三月です・・
また今年の誕生日で私くし・・還暦60歳を迎えます。
さて、こんな記念の年・・
1992年当時の事と「きものとベトナム」という課題で書いてみようかと、
昨年のあいさつと重複する事項もあると思われますが言い続ける事思い続ける事やり続けるという事が何より大切「継続は力なり」という事で思うままに書こうと言う想いに至った次第です。
着物と共にあった今まで(時々羨ましいと言われるのです)・・ですが・・なんと言っても弱小企業のビジネスでしたから厳しかったです。続いた第一の理由は何と言っても「持ち前のやる気と天性のアイデアと負けん気の強さ+定義に無い数多くの生地の魅力・・そしてこの仕事を自立させなければ~自立させてみたい~と言う湧き上がる強い強い信念があったからだったと思います。
現在に至るには(誰でも)それなりに物語がある訳でして・・他人から見てどんな物語であれ私自身が「あ~この仕事を継続して来て良かったな~」と思える自己満足で人生充分に幸せだと・・思える現在・・又この想いの中から次に生まれるであろう~事柄に思いを馳せながら・・またまた幸せである風を感じるサイゴンでの日々に感謝です。
さて幸せ幸せって言ってますが・・ま~ココに書けない涙泪の事例も多くあることも事実ですがなにより私が「東洋のパリ」と呼ばれるホーチミン(旧名サイゴン)にご縁を頂いたのは
25年も前の1992年5月の事だったのです。
今から振り返ってみますとベトナムとの出会いは運命と言うか宿命だとつくづく思います。
1980年代の東京銀座で(特殊な時代であるバブルを)OLとして10年過し「売上第一主義の帯と着物のワンセットで300万~500万円以上の金額が毎日売れた時代」の社会的背景
をバックに「着物業界の有り方に」ほとほと嫌気がさし1992年2月着物に見切りをつけたく退職したあの頃・・・・
そして「何故か導かれるように」同年5月「東洋のパリ」と呼ばれるここサイゴンに(当時予防接種5種の注射を打ってまで)香港経由でタンソンニャット空港に降り立ち暑い暑い太陽の中イミグレまで歩き・・長~い時間待たされたうえ「やすりも掛けてないようなざらざらしてる木の板を開けて」顎で「行け」と合図されイミグレを通過したあの頃・・・
空港から中心地までの(NguyenVanTroi~Nam KyKhoi Nghia)当時は舗装もされて無い細いデコボコ一本道だった。
現在の近代的な空港や街並みや道路の風景とは(間違いなく違う)あの頃・・・
そして何より町の人々の(とんでもなく貧しい着姿の屈託のない「終戦後のTVで観た日本人と同じ)・素直で純粋な素敵な笑顔の顔・顔・顔・・・
思い出しますとあの当時のベトナムはドイモイ政策が(まだまだ)順調ではない時代でベトナム戦争終結してから10数年過ぎていたにも関わらず・・電力不足で街灯の一つの整備も無く南国特有の木に張り巡らせた豆電球の明りだけで夜は薄暗く家々は多くの日々蝋燭の明かりに頼る生活・・日中は焼けるような暑さの中乾いた土埃を舞い上げて走る数台の車と日本語の書かれたバス・・バイクは(中古でボロボロの)ホンダの50cc(しかなく)主な交通手段はこれも(中古のボロボロの)自転車と骨組みも貧弱なシクロ……
着てる洋服と言ったらグレーや茶系の上下のババ服と呼んでいたが正式には「ドーボー」と呼び・・ホント人が数えられるくらい優雅と言うか?街路樹とシクロのある街並みが主役だったらあの頃・・
当時日本食レストランは「サイゴンレストラン」と呼ばれるお店1件だけ・・
此処で初日歓迎会があったのですが・・トイレは洋式だったのだが・・レバー回しても水が流れない・・はてさて・・(つい先日まで)大都会の銀座のバリバリのOLだった私にはどうした事かいくら考えても方法がわからず・・さすがに・・現地の人に尋ねると・・「桶からバケツで水を汲んで流すんだ」と言われ・・「あ~もう!!こんな場所で生活なんて出来ない!!と・・すぐ帰国を決意した(はずの)あの頃・・
翌日ベトナムの代表的な国営工場「レガメックス従業員8000人」の場所に(半年前からスタートしたワーカー数40人位の「着物工場に入って余りのあり様にびっくり」
驚きの風景の中・・絶対絶対(もう)帰るぞ~と心に再度決意したあの頃・・
なのに!!その日の「お昼の有る出来事」が・その後の私をやる気と本気にさせてしまい・現在迄ベトナム人と付き合う事になり第二の故郷になってしまったのである。
10歳で着物の仕事を志すようになりその後専門学校には行ったがやはり独学で学んだ事や当時の社会環境による学びがベトナムでのオンリーワンの着物指導に繋がっていくのですが・・着物バブルの20代を銀座で自由に過したその経験(安い給与で)とにかく「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という諺があるがよく仕事したな~と)本当にお金には変えられない貴重な経験だったと今でも思います。そのような意味では当時の社会環境にとても感謝しています。そしてその後ベトナムへ~まさに運命としか言いようがない~とよく言われる出会いが待っていたのですから・・この歳月は(2016年度挨拶でも書きましたが)早々一言では語れない「VN着物ビジネスに発展する「人と仕組み」を作らせて頂いた事は青春であり遣り甲斐だったのだと思います。
またもう一つの事実・・着物ワーカーの多くは「Thai Binh省出身者」が殆どです。(「Thai Binh省」は第二次世界大戦の日本ととても深い歴史関係があるのですが」
偶然にVN人パートナーの出身がここだったので・・日本のきものの技術でごはんが食べられる将来性のあるここサイゴンに地域全部の若者が集団で移住してきたのです。
当時のベトナムの子供たちの多くは仕事が無く飢餓状態でした・・今40~45歳前後で多くのあの頃の子供たちは高齢化を迎えつつあります。着物の仕事は当時私が(基本給+歩合給制度を最初に導入しスタートしたのでした。当時日本からの仕事がほとんどなかった時代どんどん増えていく着物の仕立てで得る外貨は間違いなくHCM市の財政を助けた事でしょう。
この事実と真実が「ベトナムの(着物お仕立て)ブランド」に(すでに)なっているのですが・・
とにかく国内仕立てだと謳いながら・・着物に関わるほとんどの方々がVNに仕立てを出してる為都合の良いことは国内仕立てで・・都合の悪い事はVN仕立て(笑い)のが事実です。今後VN人が上手だと言う事実の発信と日本国内での仕立てのブランドの差別化をめざしたいと思っています。ま~1回の輸出入による枚数が100枚以上であれば利益が出ると言うビジネスのしくみによって・・直行便も無かった困難な時代を経て発展し続けてきたVN着物高級仕立ての歴史・・
良く考えて見れば・・着物を「仕立てると言う過程こそ」が世界に一つしかない歴史ある日本文化なのですが~~染や織の難しさや困難さや着物の華美や歴史観だけ注目されがちでその染や織の難しい困難な生地を着物に仕立てると言う工程の重要さや判断力や仕上がり力は戦後の日本国内で(ある一部を除いては)全く価値の無い徒弟制度の陰に埋もれた黒子の役割なんですよね・・ですので殆どの日本人は理解できていません・・一言で言いますと大妻大学の前身である花嫁修業位のレベルの感覚なんですよね~プロの世界はまた違うのですが
また「ミシンで縫った既製品の着物が着物だと思っている」という時代・・既製品も着物は着物だろう~と殆どの人は言います。しかし「ミシンで縫った着物は着物では無い」と伝えたい・・だから「国内仕立てという触れ込み」で高額な仕立て代を頂きVNに出すHPや呉服屋及び国内仕立て業者及び和裁士もいるのです。という事はVNが上手という結論で結果このビジネスはVNの勝利という事なのです。
この辺りの理解出来る賢い消費者になって頂きたいと思います。
着物を着こなし着物の(何が)難しいのかを理解する力を持った人が日本人と呼ばれるべき時代になりそう~なのでしょう~~~という事で・・今年も頑張ります・・
サイゴンから発信する
「KIMONO ERIKO」の仕立てのブランド化に向け今年も準備して行きたいと思います。
皆様どうぞよろしくお願い致します
2017/03/吉日
渡部衿子(わたのべえりこ)