スタッフと技術力ビデオ(運針)

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2020(令和二年)


KIMONO E JAPAN CO.,LTD.
代表取締役社長
渡部衿子(WATANOBE ERIKO)
着物企業アドバイザー
着物着付け指導師
KIMONO MEMORIES 主宰
HCM日本商工会会員

新年 あけましておめでとうございます

2019平成から令和元年へ
皆様にとってどの様な年だったでしょうか?


平成の着物はVietnamと共にあった時代だとはっきり申し上げます。


現在の「KIMONO E JAPAN Co.,LTD.」設立経緯


当社着物工場は(現在も)Vietnamホーチミンの国際空港から20分程の好立地にある(空港に一番近い)1999年スタートした有名な工業団地の場所にあります。


1992年の5月から縁あってこのVietnamと共に29年目を迎えています。
ご存じの通り社会主義のVietnamにおいて外国人が設立できる会社は国が定めた工場団地内に50年借地権を購入する以外会社設立はほぼ不可能でした。


民間の場所で外国人が100%で会社が設立できる法案が通過したのが2006年5月でした。


着物Vietnam仕立て初期
1992年(HCM日本領事館設立が1993年)に5月に偶然の成り行きでベトナムと出会いそしてどうせ教えるなら子供たちを日本一の和裁士にすべく東京仕立ての着物の指導を開始した。


まず入り口では靴を揃える事カバンもきちんと各自並べる事、そして手を洗う事から針の持ち方から運針~鯨尺の読み方と使い方~裁ち鋏の使い方などとにかく日本の着物の全ての道具で開始し約三か月以内で振袖留袖を習得したのです。


出来栄えは勿論~抜群でした。第一期生は素晴らしい能力を発揮してくれました。日本人以上の品質で1992年最初から東京仕立てに到達しており99%の完成度だったと(今も当時の環境を鑑みても)自負できます。


99%の完成度の理由ですが日本では4-5年目に和裁士が手に出来る振袖・留袖をVietnamの第一期生は(既製品でしたが)最初から手に持たせ綺麗な振袖を縫うため手を洗う事も身なりを綺麗にすることもそして何より難しい「運針」を綺麗な着物を縫いたい一心で泣きながら習得したのです。


あの頃のVietnam人女性は本当に貧しく一日一食の時代にも拘らず、しかし人に明るく優しく笑顔で素直で勝ち気で~~そして市内はほぼガラガラで歩く人も少なくまた停電も多く(今では想像もできない程)数台の車と数えられるほどのバイク(50CCのホンダ)で古い自転車が多かった時代でした。


この様な環境の中~日本から振袖・留袖を飛行機で持ってきて輸入手続きをし2か月半で綺麗に仕上げまた仕上がった着物たちを日本に送った最初の一便から現在まで私の手元に来て仕立てさせて頂いた着物の総数は120万点程になりますね・・
私が指導した子供たちは他社へ行き縫ってるので私の指導した縫い方の着物はさらに多い事になりますね。日本から遠く離れたこのVietnam27年の中で私の分身である着物は事故もなく紛失もなく現在に至っていることは多分奇跡?でありVietnamと着物たちに感謝しかありません~~と平成を振り返ってる次第です。


思い出しますと1992年5月からわずか3か月で完璧な運針と裁断から(既製品でしたが)その後いろいろな経緯の中1995年まで一人一枚縫えるように東京仕立てを指導出来たこの数年が一番充実した時間だったと懐かしく思いだされます。


1992年当時Vietnamホーチミンに来る日本からの手段は大阪からのバンコク経由又は香港経由週二便でキャセイ航空だけでしたね~
交通手段が満足にない中~当時から着物は飛行機で輸出入しており着物ワーカーの給与も基本給+出来高制に仕組みを作らせて頂いてたので着物ワーカーのやる気と品質はそれはそれは日本人など手も足も出ない位抜群の品質でしたね~~
日本人が失ってしまったこのVN人の貪欲な姿勢に私は顔で笑って(心は)只々泣いてましたね~


1995年5月(前月4/30は1ドル初めて80を切り79円になった)初め中国などで(海外縫製していたPU社)他日本国内の仕立て業者や悉皆業者の日本人がVietnamの着物仕立ての評判を聞き訪越をして当時の着物工場であるドックフック会社から主要なVN人を引き抜き始めたのが最初でした。この引き抜きはその後のVietnamにおける争いの最初でした。


1997/7月には物流会社も含めた争いにベトナムの着物工場は400人近いワーカーの引き抜きによる争い(すべて日本人が仕掛けVN人が加担する)状態の騒動後VNドックフック会社に残った80人の子供たちの仕事を受注する立場となり私は東京に1997/8月(株)着物職人を設立する事となりVietnamドックフック社の80人の着物ワーカーと日本国内の仕事先を見つけ最初80枚の受注からスタート~東京税関から初めて暫定八条による着物の輸出入のノウハウも何度も東京税関に足を運び担当職員に着物の講義をし~~
本当に東京税関(当時は原木にあった)に置ける着物の輸出入の全ての資料を作成させて頂き現在に至ります。


中期~後期
東京に1997/8月設立した(この年の10月は山一證券が自主破産)(株)着物職人渡部100%会社(2006年解散は)3年ほどで日本国内の悉皆屋専門の会社及び46社の呉服屋及び着物仕立て業者5社から受注しており全盛期で月産1万点ほどの着物の誂えを受注していた。


2000年代この頃ドックフック社は育てては引き抜かれの状態でした。着物は全てVietnamで仕立ててることを隠し(差額を抜いてる)取引先ばかりでとにかくホーチミンには(自分達は自分で育てられないから)引き抜きによる方法で着物工場も増え日本国内の着物の誂えや既製品の殆どがVietnamに流れてきた時代でした(今もですが)


2009~2010年当時Vietnamホーチミン税関局にVN側から日本に輸出された着物の数量調査をお願いしたところ年間110万点以上近くあったのです(が)昨年の調査結果は約半分以下でした
点数減の理由は(需要が減った既製品)の仕立てがほぼ無くなり誂え仕立てのみVietnamに来ている傾向と予測されます。


つい近年までこの日本人による当社の着物ワーカーやアシスタントやその他通訳者通関士などの引き抜きは絶えず現在Vietnam特にホーチミンには事務所や着物工場は大小40社以上に上っています。


そして40社以上の中で外国資本100%はわずか4社であり他は(色々特権もあるであろう)VN人の名義で着物工場を経営してる日本人が多いのです。


VN人経営レベルの着物工場が運営出来てる理由の一つに「第一期生の着物の技術レベルは」日本の東京以外の地域の着物仕立てのレベルよりVN側が上であることも一因です。


また誂え仕立て指示書のノウハウも輸出入のノウハウもすべてドックフック時代からコピペを持って出てますのでVietnam着物仕立ては当社以外のある程度の着物工場はすべて当社のコピーといっても過言ではありません。


{現在の当社の特徴と2020目標}
一枚一枚の誂え専門の着物仕立ての会社になります。


いつもいつも現場の中は特殊な着物やコート衿の仕立ても多く特注の振袖や別染めの引きずりや舞妓さんの着物やおばあちゃまの貴重な着物を7歳のお孫さんの寸法に仕立て直しなど(着用した家族写真も頂きました)~~


また見丈が短い生地には足し布を縫い合わせ着付が綺麗に出来る様に~お相撲さんなど特異な体形の身幅も幅に共生地を足すなど勿論一般のお客様にも肩幅や袖幅など生地を綺麗に縫い足しなど細かい作業も評判で先日も「難しい生地を本当にきれいに仕立ててくれてありがとうございました」と日本のお客様からお手紙を戴いたばかりです。


近年はようやくVietnamで着物が縫われている認知度も高くなりお褒めの言葉を戴いたりうれしい時代になりました。令和はもっともっと皆様に知って頂ける様に精進して参りたいと思います。


また、基本普通の生地の浴衣は受注しておりません。理由は他の誂えの着物で手がいっぱいと言うこともありますが現代の浴衣の生地は粗悪な生地が多く商品的価値も縫う価値もない生地が多いのが現実です。
また浴衣と着物の違いが判らない為(浴衣は安い)と言う人が着物の仕立や呉服業界や着物業界に多く辟易です。


また、打掛の仕立ても時々あります。もちろん綺麗に仕立ててます(が)残念ながら打掛生地は飛行機で送ると行き(仕立てる前も)も帰り(仕立てた後も)体積も多く重量も重く運賃及び諸経費も日本側高くなる為~その為(技術的にも料金的にも帯と打掛はVNに送るメリットがない)のであまりVNには来てないのが現状です。


(が)さすがに日本国内も高齢化が進み打掛も仕立てる人がいないので厳しい状況だとお聞きしております。帯の仕立ては需要が少ないことと袋帯など芯入れは安価に機械化されてますし帯はミシン仕立てが殆どですのでビジネスとしてVietnamに空輸までしての価値はないということで元々来てません。


またとても不思議なことですが業界は消費者に着物の仕立ては「京都」だと宣伝しています(が)元々京都の仕立ては歴史上は「仕立ての手が下手です」


着物の仕立ては東京が一番です。理由は(粋な)着物が売れる場所(だった)からです。粋な着物は仕立て上がり方が難しく誤魔かせない生地が多いのです。(また)機会があったら着付けも含め詳しく説明できる場所を設けたいです。本当に日本の着付学校も問題です。


現在~~
2006/8渡部本人名義外国法人100%ですぐ登記設立した会社が2007/8月ドックフック社から移管した社員数341名で当社「KIMONO E JAPAN Co.,LTD.」として本稼働し(引き抜かれて現在250名程ですが)技術的にも品質的にも現在まで日本からの評価を頂きお陰様で今年で12年目を迎えてる次第です。


しかしVietnamの税務局には四苦八苦(当社に限らず)の有様ですが、日本側の輸出入諸費など考慮してもVietnamは5年前からバブルで人件費も高騰の一途を辿っており、しかしもうVietnam無しでは日本の着物は成り立たない状況で着物を縫う技術をキチンと知って頂きその技術の対価として「お客様から適正価格を戴く時代」


それが令和の時代だと思います。


商用で年間4回ほど東京に戻る度感じること
またインターネットによる着物の仕立て価格を拝見しますとなぜ国内仕立ては高くVietnam仕立ては安価なのか?


この現象に着物業界や着物仕立て業界の実情を把握してる私くしとしては仕立てを注文してるお客様から国内仕立て料金を戴き国内着物仕立て業者は名前を隠しVietnamに着物仕立てを出しているのが29年目の今も続いています。


当社の日本取引先は品質評価を頂けてるのですが当社以外のコピー着物工場に出してる日本側の評価は「Vietnam仕立てだからしょうがない」レベル??
また、Vietnam?だから?当然の様に人件費が安い?


だから仕立て代も安くて当然~~という着物業界や呉服屋及び日本人消費者の差別意識を常に感じた27年でしたがもうそれは令和2年から止めましょう。当社は日本国内以上に急品も対応しています。


VNに夕方入荷した着物(訪問着や振袖や小紋など)が(明後日着用と分かった時点で)朝から夜までに仕立ててDHLで輸出して明後日の朝(関西空港着)関係者が通関手続き終了した時点でお客様のところへお届け~~する
こんなことが年間数回起きますがすべて完璧に対応出来ています。


こんな当社ですがVietnamも高齢化が加速して行きます。すでにVietnamにおける着物ワーカーも高齢化が進み若い方の応募も少なく実際技術の継承も出来ていないのが現実です。


理由は~難しい着物より簡単に習得できるミシンがみんな好きなのです。着物は(他の産業より)かなり給与が高くてもより給与が安くて有名なUNIQLOの縫製が誰でも大好きなんです。運針が嫌運針が難しい~~とVN人も悲鳴を上げます。運針も出来ない日本人は何が難しいのか何が出来ないのか?
「出来無いことの理解ができない日本人」のなんと多い事か?


このままではいけない~~と思う日々~~


2020年度はもう少し本格的に日本人に直接関わって行きたいと考えています。


「物質的平成」から「精神的令和」の時代だと言われた元年のスタート。また日本国難の時代ともいわれています。VNから日本を見続けてきた私の気が付いた責任として着物を通して日本に伝えたい事を発信していく活動の令和2020にします。


私が尊敬する人物、馬渕睦夫氏、日下公人(くさかきみんど)氏、武田邦彦氏、川添恵子氏、田中英道氏師と仰がせていただいてる方は数人いますが特に「馬渕睦夫氏ひとりがたり」から以下引用し私なりに解釈させて頂きました。


伝統文化とは?復古の精神である。


私たち日本人はもう一度原点に戻ることが大事~と馬渕氏は力強く仰っています。
私は日本の文化とは日本そのものだと思うのです。そして着物は日本人の民族衣装です。今まさに化石化しようとしてる着物です。


なぜ化石化か?


自分で着れなにのにやたらと人に着せたい人がなんと多いか?
まず自分で着ることがとても大事です。そして人に着せるより自分で着るのがちょっと粋な時代~~それが令和の時代です(yo)


さて馬渕氏が仰ってる復古の精神とは「(復古)の精神とは(祓え)の精神である」と仰っています。復古とは歴史民俗用語で「昔の状態、体制に立ち返る、または戻すこと」また(祓え)については神道の根本思想に関わる言葉ですが戦後たどった現在の着物の在り方を令和の時代「祓う」必要があると私は感じます。


着物は古い?


そう言って着物改革だといい着物業界はどの様に改革して来たか?すべてが売り上げ優先結果どう着物を改革したのでしょう?
長い日本の歴史の中で元々内着であった小袖の形が着物としての表着となって現代まで300年以上です。私は着物柄というより柄がない着物の有るべき形や姿が好きです。元々古くないから現代まで受け継がれてきたはずです。古くなってないから続いてきたはずです。その続いてきた着物の形を戦後の日本人は手を尽くしいじり尽して来たんですよね。そして着物の本当の美というものを知ることもなく言いなり?になってきた消費者たち。


さて日本人らしい着物の着方や風情で(男女とも)日本人の着物姿に最も似合う漢字を考えてみました。


①粋(いき):意味
気性 態度 身なりがさっぱりした気立てで・垢抜けがし・色気(いろけ)もただよう・そういう感じのする身のこなし・様子。
例「帽子を粋に被(かぶ)る」「粋な計らい」人情の機微に通じ、さばけているさま。
すい:意味
混じりけがない
例「粋を集める」
また、人情 趣味に通じ、垢抜けしてること。
例「粋が利いた計らい」


②清い(きよい):意味
けがれがない・さわやかだ・きれいだ。(澄んで濁り・曇りがないこと)
例えば:「月が清く澄み渡る」風景に似合うのはゴテゴテな現代の留めそでや振袖ではなくこざっぱりとした小紋や紬柄の着物姿が好きだと思うのですが。。。。


いかがでしょうか?


私は「淑女=山の手風」のイメージの漢字より日本女性は「粋」であってほしい「粋」の漢字の意味が大好きです。


=戦後の着物業界=


戦後の着物業界は戦後すぐcm・メートル法を使う着物専門学校(花嫁修業)とクジラ尺を使った着物のプロを育成する職業和裁の二つに形成され現在に至る。


(現在も市販の着物仕立て本はcm・メートル法使いですべて素人向けの本のみである。)


戦後の特徴の一つである着付けの学校ですが各学校が競って開発した着付けの道具と反物の販売会社である。よく考えてみてください。戦前の日本人はこんなくだらない着付けの道具を使用して着物を着ていません。 着物の着方は親や祖母から受け継がれてきたものです。その着付けの継承がビジネス化して行くことでその継承がいつの間にか消えていった。


着物を着れない日本人になったのもこの道具を使った指導が原因の一つでもあり鏡を見て着付ける普及も着られない原因です。私の「ホーチミンにおける着付け指導は「鏡を見ないで着る着方」です。鏡を見ないで着る練習は習得が早くまた着方がいい感じです。


販売方法も着物の仕立ても着物の着付けも改革~改革~と謳い~着物が衰退していく原因となった事にどれだけの日本人が気が付いているのでしょう。どうして日本人の民族衣装である着物が着られない人がほとんどなのでしょうか?
着られない縫えない~大丈夫?日本人!!。


いえいえい~~え
令和は着物が着れる人が~ちょっと縫える人が~
素敵な女性になる時代の始まりです。


今後も諦めずにベトナムから着物を発信して参ります。
2020年
よろしくお願いいたします。